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現象としてのゲーム

何が思考をつくるのか

井上 明人(GLOCOM研究員/助教) 2011-03-01
現象としてのゲーム
編集部より
当連載「現象としてのゲーム」は、やや難解な表現を含んでいます。一読しただけでは理解が難しい内容もありますので、複数回読み込む事を強く推奨します。

私はゲームというものが、単に娯楽ということを超えて、とんでもない可能性をもつものだと思っている。こういうことを言うと、直感的に、私のことを、少し頭のおかしい人のように思われるかもしれない。あるいは、ただの個人的な趣味の価値をむやみに振り回して主張するあたまのわるいオタクみたいに思うのかもしれない。
あたまのおかしい人の話を聞く気で聞いていただいてもかまわない。実際、これから話すことは、私の所信表明演説のようなものになる。けれども、単なる思い込みということを超えて、少しは系統立てて話しをしてみたいと思う。

「頭のいい人。まともな人」なるもの

私が仮に頭のおかしい人だとして、逆に「頭のいい人。まともな人」なるものについて少し考えてみてほしい。
「頭のいい人」というものの典型的なイメージとしてもっとも、よく流通しているイメージの一つは、様々な複雑な事象に対してクリアーな議論を、高速にするような人間…というようなものだろう。
ただ、こういう人間であることが目指すべきケチのつかない理想的な人間像であるべきか、どうか、ということはすでに歴史的には何度も批判的検討の対象となってきた。
そもそも、人間というのは、討論だとかによって自由に思考をめぐらせることで、世界を十全に知ることのできるような優れた存在だったのだろうか?という問いかけ。こうした問いかけが、何度もなされてきた。

そうした問いかけがなされた結果、人間というのはそんなに簡単に世界を知ることができるほど優れた万能な知性はもっていない、ということは、哲学者なんかの中ではけっこうメジャーな合意事項となった。
とりわけ、そのための例示として挙げられたのは討論に用いられる「ことば」というものの影響力の大きさだ。
ことば」というのは、実はびっくりするほど人間の思考というものを左右していて、「子供」とか「同性愛」とかそういう概念がどのようなイメージとして与えられているかどうか、でびっくりするほど人間の意識を左右してしまうようなところがある。そういうこともあって、言葉が人間の思考をどのように規定しているか、みたいな研究は20世紀後半には非常に盛んになった。社会的な言葉のイメージの歴史的変遷みたいなテーマは未だに社会学のなかでは重要な話だし、認知言語学とかでもだいぶ研究された結果、今のところ、20世紀半ばに言われていたほどに強い影響力はないけれど、まあけっこうな影響力はあるよね、みたいなところで落ち着いている。

まあ、「ことば」のイメージのブレだけで人間の自由な思考みたいなことが左右されまくったりしないにせよ、社会的慣習だとか、映像だとか、けっこういろいろなものが人の思考というものをかなり左右してしまうことはよく知られている。インド人と、日本人が、お互いに英語で会話をしたとして、意思疎通にすれ違いが生じるようなことがどのぐらいありうるだろうか、みたいなことをぼんやりと想像してもらえればそれはわかると思う。やっぱり、日本人は『ムトゥ踊るマハラジャ』をネタとしてはともかく、ベタなものとして消費するのはけっこう無理があるし、カレーを延々と食わされ続けるとつらいし、衛生感覚とかもぜんぜん違うし、けっこう厳しい。インド人はインド人で、日本人はなんでこんなに醤油ばっか使うんだと思うだろうし、女性だとか、宗教だとか、国家だとか、家族だとかの概念なんかとかがぜんぜん違うので、「えー、それはないっしょ」みたいなことをあっちはあっちで、ぜったい感じちゃうだろうと思われる。

思考というのは、様々なものの積み重ねによって作られる。言語、社会的慣習etcといったものが降り積もり学習され、その上に思考は存在する。

では、こういった討論によって自由にならないようなものを我々はどのように扱えばいいのか。それは、お互いの違いを単に尊重しあえばいいのか。では尊重するだけでは足らないほどに衝突が起こった場合はどのように処理すればいいのか?討論をすればそれは足りるのか?努力をすれば、思考や感覚を我々は変えることができるのか?

20世紀後半の社会科学や人文科学とされる学問(社会学、文化人類学、言語学、歴史学、心理学etc...)というのはこうした違いが時代や地域によって大量に存在していることを様々な形で明らかにし、時にはなかなかに面倒くさい衝突が起こることなんかも明らかにしてきた。
その違いや、衝突の難しさを指し示すことは極めて重要な仕事だった。

とにかく、衝突が起こったときに難しいのは、言葉を交わすことができても、相手の感覚はわからない、ということだ。相手の感覚がわからないままに、言葉だけが取り交わされても、言葉は宙に浮いてしまう。「ねえ、私のこと、本当に好き?」「うん、愛してるよ」みたいな言葉とかがしばしば定型文に陥ってしまって、無力なことがあるように、言葉の先にある感覚を知ることの難しさというのは、極めて困難な問題をはらんでいる。「ほ、本当は、あんたのことなんて好きじゃないんだからね!勘違いしないでよね!」は最近では、逆に特定の感覚を想起させる言葉になってしまったけれども、まあ、「あんたのこと?え、別に好きかどうかとか言われても…」とさらっといわれると、やっぱりこれはわからない。言われた直後に「あいつ、あんなこと言ってたけれど、ほんとはツンデレなのだろう。絶対そうに決まってる」という推測をしてしまうのは、だいぶ痛々しい人である。

相手の感覚を知る方法、感覚のエミュレーション

相手の感覚を知る、ということはどのような方法によって可能だろうか。
たとえば、羽生善治の感じている世界を我々は知ることができるだろうか
羽生善治は、誰もが認める将棋の天才である。それゆえ、羽生善治が将棋について語るとき、それは羽生善治の見ている世界そのものを語られても、ほとんどの人は理解が及ばない。おそらく、それは、遊んだことのないゲームの攻略法を聞かされるような退屈な気分になるはずだ。「だからさー、とりあえずゲームがはじまった時点でSTRに3振り込んで、ライフをとっておけば、まずは楽勝だから」とかいう話を遊ぶ予定のないゲームについて聞かされても、正直なところ、なんの話をされているか理解できない。理解ができない、ということを理解するだけだ。
羽生善治が、将棋について一般向けに語る言葉はあくまで、一般の人々が理解可能な比喩や、概念を通してでしかない。ときたま羽生の「神業」というものが紹介されるようなときのケースというのは、羽生の思考の卓越が、誰にとっても、露骨な意外性をもつようなケースの紹介のようなものになりがちである。羽生の考えそのものに到達すること、あるいは、そのものを知ったような気分になることはおそらく、人類の99.999999%ぐらいにとって不可能なことだろう。

「羽生善治」はだいぶ極端な上達を遂げた人間の例だが、ゲームをプレイしていれば、たいがいの人は、ゲームにある程度上達してゆく。そして、ゲームをプレイしたことのある人であれば、誰もが等しく知っていることだと思うが、ゲームに熟達してゆくということは、初心者とは違った形でゲームを見るようになる。
ゲームを見ている感覚そのものは明らかに異質なものに変容を遂げている。しかし、網膜に投影されているゲームの風景は変わらない。
ゆえに、その感覚の変化を他人に説明することは難しい。
ゲームそのものは変わっていない。変わっているのは、プレイヤーのあたまの中身である。

プレイヤーの視線の動きの変化を捉えてみると、これを示すことができる。はじめてゲームに接するゲームプレイヤーは、画面の全体をくまなく見てしまいがちだが、熟達したゲームプレイヤーはおおむね、その都度の状況に応じて必要な部分だけを最小限視認する。ゲームに熟達するというこというのは、情報処理のプロセスを最適化していくプロセスでもある。
マリオに熟達したプレイヤーがある難しいエリアの攻略を説明するのに「ここでジャンプして、続けてぽーん、ぽーんぽーん、とやれば大丈夫」みたいな、説明をすることがある。これは、熟達したプレイヤーにとってみれば、じゅうぶんな情報量をもった話なのだ。彼/彼女の注目している感覚の範囲内では、おそらくその言葉を手がかりに感覚が形成されている。しかし、これは、初心者にとってみれば、何を言っているのか、はさっぱりわからない。初心者は、熟練者のようにマリオを見ることがそもそもできないからだ。
熟練者は、熟練者として考え、初心者は初心者として考える。熟練者の考えていることを、初心者が直接に知ることは、極めて困難である。

しかし、面白いことに、マリオをプレイしている人には、マリオをプレイしている人にだけ通じやすい言葉を話すこともできる、ということも、またもう一つの真実だろう。

ここで、パタパタを、ぽん、ぽん、ぽん、ってジャンプでのりついでいくのって、うまくいったら快感だよね
とかいっても、マリオをやっていない人には何のことかわからないだろうし、説明してもわからないだろう。これはマリオをプレイすることによってしか、おそらくわからない。

すごく適当なイメージを話してしまうと、マリオをプレイすることによって、マリオの世界の社会的慣習や言語を身につけた存在に、我々はなることができるマリオ国の住人。ドラクエ国の住人、になることができる。それは、その世界に没入している、ということではなく、その世界の概念や思考の枠組みの中で会話が可能な人間になる、ということだ。

こうした感覚のエミュレーション。これができるということは、非常に大きなことだ、と私は思う。

もちろん、ゲームをプレイすることでインド人の気持ちになれる、とまでは思わない。一つの国、言語、社会空間の感覚をまるごとゲームプレイヤーにエミュレーションさせる、というのはさすがにだいぶ難しいとは思う。それはさすがに、ちょっと夢物語かもしれない。

しかし、たとえば、虐殺をしてしまう人間の感覚の部分的なエミュレーションや、英語を話す人間の感覚の部分的なエミュレーションみたいなものは、部分的にはかなり可能になってきているものだろうと思う。
実際に、米海軍の訓練のなかで戦闘時の思考訓練のためにFPSが用いられている、というのはよく知られている。ゲームは「言語」によって到達しえないような感覚の伝達のための極めて有効なツールだろう、と私は思う。

もちろん、言語以外のコミュニケーションツールというのは、ゲームだけではない。映像や音声、身振りなどの身体動作など、言語によらないコミュニケーション行為や、感覚を伝えるための媒介というのは少なからず存在している。もちろん、そうしたものは、非言語のコミュニケーションツールとしてはとても大きなものだ。

ただ、ゲームというのは、映像や身振りなどというものとはまた少し、身分が違っている。たとえば、「絵」とか「歌」は国の壁を越える、という話があるがこれは半分本当で、半分ウソで、国の壁は越えるかもしれないが、文化の壁を越えるところはけっこう難しい。たとえば、ジャック・オ・ランタンの顔がくりぬいてあるかぼちゃを見たとしても、それが理解できるかどうか、というのはけっこう難しいものがある。絵や、身振り、歌といった行為にも一定のパターンがあり、そこに記号性みたいなものを見いだすという側面は、けっこう言語と似たようなところで存在してる。ゲームという、現象は、どちらかといえば、その記号性やパターンを理解させるプロセスそのものを作り出すような仕組みのほうのことだ、と私は思う。

繰り返しと、インタラクションというものを何度も行わせてしまうような仕組みがゲーム、という現象だが、言語も社会的慣習も、メタファーの習得も、いずれも繰り返しやインタラクションの中で身体に染みついてくるような現象である。もうちょっと大括りに言えば、<学習>を自発的に成立させる仕組みのようなものだといってもいい。(※学習=ゲームである、ということを言いたいわけではないので、ここは、きっちりと書こうとするとだいぶややこしいのだけれども、学習と、ゲームという現象は、それなりに強い繋がりをもっている。)。
繰り返しやインタラクションによって、さまざまな感覚の蓄積を可能にするメカニズム、それが「ゲーム」というもののもっている最大の可能性だと考えている。

どんなに頭のいい人が討論をしたり説得をしたり、感覚の壁がそれが遮られるときがある。そういうとき、いわゆる「頭の良さ」は無力である。人間の「知性」のモデルを討論や説得の能力のような点だけを中心に考えるようなモデルは、私がわざわざ言うまでもなく、もうすでにだいぶ古いものだと思う。もちろん、討論や説得といった能力に価値がない、とは思わない。そういったことが可能な「頭の良さ」は、むろん、とても重要なものだと思う。
ただ、それだけが「知性」の全てではないことは言うまでもないし、それを代替するための有効な方策として、ゲームという現象は、映像や音といったものとはまた一段違ったレベルでの重要性をもっているだろう、と私は思う。

私の言葉がどう聞こえるか?

そんなこと言ったって、「ゲームってあれでしょ、暇つぶしでしょ。ただの娯楽でしょ」。と思う人にはやっぱり私の言葉はただのオタクの酔狂なヨタ話にしか聞こえないだろう。誰にでもわかるような「あー、これか」みたいな、事例が一般に出回わっていかない限り、やっぱり私の言葉は、オタクの酔狂なヨタ話に聞こえるんだろうと、たぶん思っている。

上記のような私の所信表明は、『Armadillo Run』とか『伝説のオウガバトル』とか『塊魂』とか『Portal』とか『わがままファッションガールズモード』とか『Simcity』とか『Civilization』とか。そういうゲームをプレイしてきたことを通じて形成されてきたことだ。他にもゲームを1000本以上触れてきているので、羽生善治ほど大変とは思わないが、同じ経験をしてもらうことはなかなか大量の時間を要請するし、厄介だ。そういう通じにくさが、たぶん、私の話には存在する。話をしている私当人にはわからないけれど。
だから、私のプレイしてきたゲームをやってきたことがない人にとっては、やっぱり何を言っているのだか、わからない。あるいは、わかったとしても、表層的な理屈としては、「ものはいいようで、まあそういう言い方もできるだろうね」ぐらいの理解の仕方しかされないかもな、とも思っている。そういうことを言われるような構造が、そもそも存在する中で、私は発言しているのだから、それは結構、仕方のないことでもあるだろうと、思っている。どうしても、そうとしか思えない人には、ごめんなさい。ヨタ話だと思って頂いて結構です。

あと、20年か、30年しても、これがオタクの酔狂なヨタ話にしか聞こえなかったら、それはとっても残念なことだけれども、たぶん、それはないんじゃないか、と思っている。少なくとも、私が早死にしない限り、私の生きているうちには理解されうるだろう、と思っている。

そういうわけで、よろしくお願い致します。

筆者紹介/ 井上 明人 (GLOCOM研究員/助教)
1980年生まれ。GLOCOM研究員/助教。シングルプレイのゲームを全般的にプレイ。2005年慶應義塾大学政策・メディア研究科修了。2006年より現職。2010年日本デジタルゲーム学会第一回大会学会賞(若手奨励賞)受賞。ウェブで読める原稿としては、「遊びとゲームをめぐる試論―たとえば、にらめっこはコンピュータ・ゲームになるだろうか―」「ビデオゲームの議論における「ゲーム性」という言葉をめぐって」など。 現在、連続ustreamシリーズを実施中 
http://www.critiqueofgames.net/rgn/u/

現象としてのゲーム

「ゲーム」とは一体いかなるものだろうか。数千年以上も昔から人類が行ってきた行為の一つでもあるに関わらず、本格的な研究はまだ端緒についてから間もない。本連載ではゲームという現象が、どのように捉えうるのか。その議論を試みたい。
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ゲーミフィケーションについて

今回、扱うのは「ゲーミフィケーション」というお題だ。なぜ、いま「ゲーミフィケーション」なのか。その問題については、今月25日に発売予定の書籍『ゲーミフィケーション』のほうに詳しく書いたが、要点をいくつか書いておきたい。

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なぜ、「現象としてのゲーム」なのか

ゲームというモデルには可能性があるという話を前回した。 震災の前なので、震災のインパクトによって、話をしたこと自体が忘れ去られるのではないか、という気もしたが、次に少し、この「現象としてのゲーム」というタイトルについて話をさせてもらいたい。

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[番外編]#denkimeter ver 1.0

一人でも、多人数でも遊べるアナログゲーム#denkimeterを、本日から勝手に作って遊んでいるので、お知らせします。ぜひ、みなさんも遊んで頂ければ幸いです。   #denkimeterを通じた節電を行うことで、あなたの節電がとっても楽しくなります!パンピーどもの節電クオリティを遙かに超える伝説の節電職人を目指しましょう。

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