http://btoshop.jp/2016/11/25/4562469770642/https://play.google.com/store/apps/details?id=com.frecre.eikomusBFKhttp://eigomonogatari.com/
  • ETC
  • 連載
現象としてのゲーム

なぜ、「現象としてのゲーム」なのか

井上 明人(GLOCOM研究員/助教) 2011-05-24
現象としてのゲーム

ゲームというモデルには可能性があるという話を前回した。
震災の前なので、震災のインパクトによって、話をしたこと自体が忘れ去られるのではないか、という気もしたが、次に少し、この「現象としてのゲーム」というタイトルについて話をさせてもらいたい。

強くゲームが成立している状態と弱い状態の狭間に

ゲームというのは、我々は、ゲームソフトのパッケージのことだ、と思っていることが多いが、ゲームソフトのパッケージや将棋の盤面がゲームであるわけではない。

「ゲーム」という概念には、強くゲームというものが成立している状態と、弱い状態がある、と整理できる。

強い状態とは、たとえばこういうものだ。

ルールや勝ち負けがはっきりしており、ゲームのプレイにあたっては、ある程度複雑な戦略性が保たれ、自分のとった行動に随伴してゲームの中の状況が結果に影響がわかりやすくでてくるようなもの。そして現実の活動と直接にひもづいていないようなもの、がおおざっぱな「強いゲームのモデル」である。

たとえば、将棋。FPSやRTSの対戦だとか。そういったものは、多くのプレイヤーが、「私はゲームをやっている」と思いながら、ゲームをプレイするし、それらがゲームである、ということを否定する人は少ないだろう。

一方で、「弱い状態」と私が勝手に呼んでいるものがある。

ルールが曖昧だったり、戦略がそれほど複雑でなかったり、勝ち負けが必ずしもないようなもの。だけれども、「ゲーム」的な状況が発生している場合がある。

たとえば、マリオをプレイしよう、というときにはじめてマリオを触ってから、ルールを理解するまでの5分の間。この5分の間、プレイヤーはマリオのルールを「理解している」とは必ずしもいえない。まだ一度も死んでいなければ、マリオが死ぬ条件についてもわからないわけだ。この「最初の5分」はいったいゲームという現象が成立しているのか、どうか。

また、マリオを、500時間以上プレイして、もはやマリオの中で遊び尽くせる要素をすべて遊び尽くしてしまったようなプレイヤーが、マリオをプレイする、ということ。こういうときにゲームという現象は発生しているといえるのか、どうか。

これらは、マリオ、という一つのゲームのパッケージのなかで同時に現象としてあらわれてしまう、ことだ。

マリオ、は一般にコンピュータ・ゲームの代表的な事例として考える人は多いと思うが、この最初の5分と、飽きてしまってプレイを辞めかける最後の5分。この5分の間の現象は、一体なんなのだろうか?

これは、単に問いのための問い、を出しているわけではない。

我々が「ゲーム」という言葉で名指している事態は、一体なんであるのか、ということを考えるのに、これは絶好の問いだ、と思うからだ。

最初の五分間の話

まず、最初の五分間の話というのはこういうことだ。

たとえば、「クソゲー」と呼ばれるものを大量にプレイしてきたことのある人は、直感的に理解していることだと思うが、「クソゲー」と言われるもののうち、数パーセントは、単にルールが複雑だったり、チュートリアルの出来が悪いだけで、きっちりとルールを理解すれば、意外と面白いゲームである、ということが少なくない。

こういうゲームはマリオが「最初の5分」で遊び方をユーザーに理解させるのと比べて「最初の5時間」ぐらいかけてユーザーに遊び方を理解させていたりするわけだ。たとえば、その代表的な例は、『アンリミテッド・サガ』だろう。『アンリミテッド・サガ』は、少なからぬファンがいるゲームだが、その独特のルールが理解されにくく、説明書も不親切で、何をやるゲームなのか、を理解することが難しかった。

また、ゲームの開発者からは、「ルールが複雑なゲームだと、チュートリアルを充実させていけばいくほどに、テストプレイヤーの満足度があがるということがある」という話を聞くことがある。早い話が、チュートリアル、が理解されるまでの数分間。あるいは数時間。プレイヤーはゲームを理解していないのだし、プレイヤーは「ゲーム」という現象の中にはいないのだ。

ゲームというのは、ゲームというパッケージのことを指しているのか、ゲームのパッケージソフトを介してユーザーのなかに立ち現れる現象のことを指しているのか。

このことをきっちりと区別したい、と思っている。

で、私は、ゲームというパッケージのことよりも、ゲームというパッケージを介してたちあらわれる瞬間、瞬間の現象のほうに興味がある。というよりも、ゲームという対象についてきちんと捉えようとおもうと、そちらのほうが、すっきりとした捉え方ができることが多いのではないか、と思っている。

筆者紹介/ 井上 明人 (GLOCOM研究員/助教)
1980年生まれ。GLOCOM研究員/助教。シングルプレイのゲームを全般的にプレイ。2005年慶應義塾大学政策・メディア研究科修了。2006年より現職。2010年日本デジタルゲーム学会第一回大会学会賞(若手奨励賞)受賞。ウェブで読める原稿としては、「遊びとゲームをめぐる試論―たとえば、にらめっこはコンピュータ・ゲームになるだろうか―」「ビデオゲームの議論における「ゲーム性」という言葉をめぐって」など。 現在、連続ustreamシリーズを実施中 
http://www.critiqueofgames.net/rgn/u/

現象としてのゲーム

「ゲーム」とは一体いかなるものだろうか。数千年以上も昔から人類が行ってきた行為の一つでもあるに関わらず、本格的な研究はまだ端緒についてから間もない。本連載ではゲームという現象が、どのように捉えうるのか。その議論を試みたい。
  • 連載

ゲーミフィケーションについて

今回、扱うのは「ゲーミフィケーション」というお題だ。なぜ、いま「ゲーミフィケーション」なのか。その問題については、今月25日に発売予定の書籍『ゲーミフィケーション』のほうに詳しく書いたが、要点をいくつか書いておきたい。

  • ETC
  • 連載

[番外編]#denkimeter ver 1.0

一人でも、多人数でも遊べるアナログゲーム#denkimeterを、本日から勝手に作って遊んでいるので、お知らせします。ぜひ、みなさんも遊んで頂ければ幸いです。   #denkimeterを通じた節電を行うことで、あなたの節電がとっても楽しくなります!パンピーどもの節電クオリティを遙かに超える伝説の節電職人を目指しましょう。

  • ETC
  • 連載

何が思考をつくるのか

私はゲームというものが、単に娯楽ということを超えて、とんでもない可能性をもつものだと思っている。こういうことを言うと、直感的に、私のことを、少し頭のおかしい人のように思われるかもしれない。あるいは、ただの個人的な趣味の価値をむやみに振り回して主張するあたまのわるいオタクみたいに思うのかもしれない。 あたまのおかしい人の話を聞く気で聞いていただいてもかまわない。実際、これから話すことは、私の所信表明演説のようなものになる。けれども、単なる思い込みということを超えて、少しは系統立てて話をしてみたいと思う。

この記事に対する反応

左右ボタン・マウスホイール・左右キーで選択、画像クリックでズーム(可能なら)、×アイコン・ESCキーでクローズ