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現象としてのゲーム

ゲーミフィケーションについて

井上 明人(GLOCOM研究員/助教) 2012-01-13
現象としてのゲーム

さて、連載にだいぶ間がたってしまったが、第三回を書いておきたい。

今回、扱うのは「ゲーミフィケーション」というお題だ。なぜ、いま「ゲーミフィケーション」なのか。その問題については、今月25日に発売予定の書籍『ゲーミフィケーション』のほうに詳しく書いたが、要点をいくつか書いておきたい。

「ゲーミフィケーション」というキーワードは今現在、ほぼバズワードになってきてしまっている、と言っていいだろう。その使われ方も幅広い。基本的な意味は「ゲームのテクニックを、社会の幅広い分野に活用すること」ということだが、それだけ言っても、掴みかねる人は多いだろう。

もっとも表面的な理解は「さまざまなことを楽しくしたほうが、ユーザーにウケがいいから」という程度のものだろう。そんなことは、言われなくたって、誰だって知っている話だ。

問題は、これが「なぜ」いまの段階に大きな話題になったのか、ということだ。

世の中のさまざまな事象を「ゲーム」に仕立て上げることは、不可能ではない。昨年10月に邦訳が出た、ジェイン・マクゴニガルの『Reality is broken(邦題:幸せな未来はゲームが創る)』は、まさにそういったことが沢山かかれている。

墓参り。飛行機での時間の潰し方。社会問題への取り組み…。すべてのものがゲームになるかどうかはわからないが、ゲームに仕立て上げることが可能なことは無数にある。

しかし、ゲームにすれば、それが面白いかどうか。遊びやすいかどうか、ということは別問題だ。10年前でも、20年前でも、さまざまなことをゲームに仕立て上げることは不可能ではなかった。

大学受験や就職活動をゲームのように楽しむ人もいたし、ナンパをゲームのように楽しむ人もいた。職場での単純作業を、同僚と競争してゲームにしたてあげる人もいれば、営業活動を売上を競うゲームとしてプレイしようとする社員もたくさんいただろう。

日常のなかにゲームを持ち込もうとする言説もいまにはじまったことではない。たとえば、ゲーミング&シミュレーション学会では、そういった試みがずっととなえられていたし、まさしくそういうことを書いた本もあった。(リチャード・デューク『ゲーミング・シミュレーション未来との対話』)

これらの試みはひそやかに、しかし、長期にわたって続けられていた活動だ。

なのに、なぜ今になって「ゲーミフィケーション」などという舶来品の言葉が騒がれ始めたのか?

スケールする。

その問題に対するわたしの答えは、「スケールする(拡大する)ようになったから」だということだ。

ゲームの仕組みを日常に組み込むことが、この数年で格段にかんたんになった。簡単になっただけでなく、ビジネスとしても拡大することができるようになった。

いままで、どこかの街角や、自室で、こっそりと誰にも知られない面白いゲームにとりくんでいた人は、少なくなかっただろう。しかし、自分がひっそりと楽しんでいたゲームを他の人に、同じように楽しんでもらうための方法が、30年前と、現在では大きく状況が変わった。

たとえば、歩数計

30年前は、一人一人で測ることはできた。今日はどれだけ沢山あるいたか、ということを競うようにして遊んだひとも少なくなかっただろう。歩数計をゲームのように楽しむ、ことは30年前でも不可能ではなかった。

だけれども、30年前はわざわざ歩数計を購入する必要があったし、一ヶ月前の記録と、今日の記録を比べようと思ったら、わざわざ自分で記録しておかなければならなかった。また、一緒にこのゲームをあそぶ友人をさがすことも、面倒なことだった。

現在は違う。

現在では、歩数を測るのはiPhoneでできる。ユーザーは機器をわざわざ購入する必要はないし、サービス提供者も機器販売まで含めて初期投資コストの高いビジネスをやらなくてもよくなった。

そして、一緒にあそぶ友人はネットを介して探せばいい。誰かとあそぶ、ための方法もおどろくほど容易になった。

クソゲーではないものを作れるように

なんでもかんでもゲームにしたら面白い…とは、わたしは思っていない。

つまらないゲームはつまらない。

さまざまな教育ゲームをたくさんやってみたことのある人はしっているだろう。教育系のゲームにいかにクソゲーが大量にあったか、を。

ゲームが好きな人間としては、多くのものがゲームになればいいのに、と思っているし、思ってきた。だけれども、何かをゲームに仕立て上げるためには、ゲームをつくるための知恵がいる。そして、知恵だけではどうにもならない技術的な制約もある。

教育用のゲームはかつて、つまらないものばかりだったが、現在では、ちょっとずつ面白いものが増えてきている。これは一つには、多くの先人がつまらないものを大量につくり、その反省を重ねてきたということ、そしてもう一つは、音声認識やリアルタイム物理演算といったさまざまな技術的発展によっても支えられている。たとえば、『脳トレ』は、音声認識なしでは、もうちょっと売れなかったかもしれない。

こうしたものが作れるだけの時代が、ようやく到来してきた。

そして、それは教育用のゲームといったようなものだけに、とどまらない状況が、到来してきた。政治、軍事、ネットビジネス、さまざまな社会問題への解決…その幅は本当にひろがった。

現在の、「ゲーミフィケーション」という言葉の理解は、ちょっとバズワードになりすぎていて、勝手にわけのわからない期待をされて、勝手に失望されていく、ということも1年後には起こっていることだろう。流行りだから、それはある程度仕方がない。

ゲームが、なんにでも「簡単に」応用できる時期が到来したというわけではない。まだまだ不向きなものはある。
だけれども、日常のなかにゲームを応用するための、コストが下がったのは事実だ。
「コストが下がった」ということは、「なんでも簡単にゲームにできる」とはイコールではない

「ゲームを日常へと組み込んでいくこと」

――そのことの可能性は間違いなく、おおきくひらけてきた。
その可能性と、現状における限界を、しっかりと見据えたうえでの議論を、構築していくために本を書いた。ぜひ、読んでいただきたいと思う。

筆者紹介/ 井上 明人 (GLOCOM研究員/助教)
1980年生まれ。GLOCOM研究員/助教。シングルプレイのゲームを全般的にプレイ。2005年慶應義塾大学政策・メディア研究科修了。2006年より現職。2010年日本デジタルゲーム学会第一回大会学会賞(若手奨励賞)受賞。ウェブで読める原稿としては、「遊びとゲームをめぐる試論―たとえば、にらめっこはコンピュータ・ゲームになるだろうか―」「ビデオゲームの議論における「ゲーム性」という言葉をめぐって」など。 現在、連続ustreamシリーズを実施中 
http://www.critiqueofgames.net/rgn/u/

現象としてのゲーム

「ゲーム」とは一体いかなるものだろうか。数千年以上も昔から人類が行ってきた行為の一つでもあるに関わらず、本格的な研究はまだ端緒についてから間もない。本連載ではゲームという現象が、どのように捉えうるのか。その議論を試みたい。
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なぜ、「現象としてのゲーム」なのか

ゲームというモデルには可能性があるという話を前回した。 震災の前なので、震災のインパクトによって、話をしたこと自体が忘れ去られるのではないか、という気もしたが、次に少し、この「現象としてのゲーム」というタイトルについて話をさせてもらいたい。

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[番外編]#denkimeter ver 1.0

一人でも、多人数でも遊べるアナログゲーム#denkimeterを、本日から勝手に作って遊んでいるので、お知らせします。ぜひ、みなさんも遊んで頂ければ幸いです。   #denkimeterを通じた節電を行うことで、あなたの節電がとっても楽しくなります!パンピーどもの節電クオリティを遙かに超える伝説の節電職人を目指しましょう。

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何が思考をつくるのか

私はゲームというものが、単に娯楽ということを超えて、とんでもない可能性をもつものだと思っている。こういうことを言うと、直感的に、私のことを、少し頭のおかしい人のように思われるかもしれない。あるいは、ただの個人的な趣味の価値をむやみに振り回して主張するあたまのわるいオタクみたいに思うのかもしれない。 あたまのおかしい人の話を聞く気で聞いていただいてもかまわない。実際、これから話すことは、私の所信表明演説のようなものになる。けれども、単なる思い込みということを超えて、少しは系統立てて話をしてみたいと思う。

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