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二つのグローバリズム
グローバリズムには二つの考え方があります。一つは、世界で共通のスタイルを策定して、それにのっとって物事を進めようという考え方です。実際、多くの場合、そこには嘘があって、特定のローカルなルールを洗練しながら国際的なスタンダードにしようとする意図が見え隠れします。さまざまなパワーバランスの上に、そういったスタンダードが力を持ち始めると、それぞれのローカルな文化はおさえられ、変形・隠蔽・消滅されることになります。国際的な経済の仕組み、資本主義の席巻などをイメージされると良いでしょう。つまり、それは極めて都合の良い商業的なグローバリズムです。
もう一つのグローバリズムの考え方は、文化において存在するグローバリズムです。お互いの文化を尊重しながら、それらを一つのテーブルの上で争わせようとする方法です。そこでは逆に、それぞれの文化がどのような根を持ち、どんな花を咲かせるか、という勝負になります。庭に咲く草花の勢力争いのようなものですね。ファッションや絵画の世界を思い浮かべてみましょう。そこでは、トラディショナルなヨーロピアンスタイルを軸としながらも、時代時代で、日本、アフリカ、地中海、北欧など、さまざまな地域文化のモードを取り入れながら発展しています。
そこは文化のせめぎ合いを、公正な土壌で行おうとする場です。それぞれがローカルな文化に根を持って、グローバルに展開しようとせめぎ合う。これがコンテンツとしてのグローバリズムです。
商品としてのグローバリズム、コンテンツとしてのグローバリズム
ゲームはコンテンツであると同時に商品でもあります。そこでグローバリズムという時に、前者の商業的なグローバリズムに目が行きがちです。商品をグローバルに展開するということと、コンテンツをグローバルに標準化することが同じものとして扱われる傾向にあります。そこで「商品をグローバルに展開するために、コンテンツを万人に受けるものにする」という論理がまかり通ることになります。それは間違いではないですが、正解でもありません。ユニバーサルなコンテンツの基準というものは、本来あり得ないものだからです。
先に述べたようにコンテンツのグローバリズムは、それぞれにローカルな根を持って初めて展開する力を持つからです。だからデジタルゲームでは、「商品としてのグローバリズム」、「コンテンツとしてのグローバリズム」の二つの矛盾に常に苦しむことになります。そして日本のゲームはどちらも強く推し進めることができないまま、デッドロック(膠着)状態にあります。
ゲーム開発者に迫られる選択肢の先に
ゲーム開発者は今、自らの根を張るのか、根を削ぐのか、という選択肢を迫られています。また、どの部分の根を張り、どの部分の根を削ぐのか、という問いを突きつけられています。
しかし、一度こういう思考実験をしてみましょう。全員がグローバリズムに合わせて、自分と自分のコンテンツを国際標準化しました。そうしてしまった時に、自分と自分のコンテンツのアイデンティティはどこにあるでしょうか?皆がせっかくそれぞれのホームグラウンドを持ちながら、自らのルーツを抑制し標準化してしまった時に、そこには他者と自分を区別するアイデンティティがあるでしょうか?そこには100個の文化から集まった全く同じコンテンツが100個あるだけなのです。
グローバリズムの時代においては、ローカルなルーツこそがアイデンティティを与えます。ただローカルなルーツは万人に受け入れられるものでなくなる。しかし、標準化したのでは、他の商品との区別がつかない。では「ローカルでありつつ、グローバルであり得るもの」とは何でしょうか?芸術やコンテンツの歴史上で、そういった例はなかったでしょうか?もう一度この問いを考えてみることが、次の世代のゲームの出発点になると考えています。
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