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今回は少しひねったゲームの意味を考えてみたいと思います。
――ゲームには何の意味があるか。
人間だけではなく、動物たちも遊びをします。じゃれあったり、噛み合ったりして、本気でない、というレベルでお互いの存在や、自分の身体の能力を確かめたりします。それは、本来、やがて本当に生存戦闘になった時の予行演習(=ゲーム)の意味を持っているのでしょう。
ですから、本当の戦闘を一度経験すると、そういった遊びは必要なくなり、意味を失ってきます。
デジタル時代への予行演習としてのデジタルゲーム
デジタルゲームは――もちろんそれがすべてだと言う気はありませんが――来たるべきデジタル時代の先駆としての役割を持っていました。何しろ、80年代、90年代には、デジタルの時代というものが、一体、どのような形で社会に浸透するか、全くわからなかったのです。
そんな中でデジタルゲームは一番身近な存在でした。デジタルゲームの延長上にデジタル時代を予想することは自然なことでした。つまりゲームは未来を予感する鏡でもあったわけです。ですから、80年代から90年代にかけて、ますますデジタルゲームへの期待と予感が高まったのは自然なことと言えます。無意識的に、デジタルゲームは来たるべきデジタル時代の予行演習(=ゲーム)であったわけです。
どこにもつながらない世界と、どこかにつながって行く世界
しかし、いざデジタルの時代が来てみると、デジタルの世界は決してデジタルゲームの延長線上に位置するものではありませんでした。デジタルコンテンツの多くは、むしろ、ゲームに比べれば見栄えのしない、地味なツールの集まりでした。ですが情報を整理したり、計算したり、保存することができ、とても便利でした。何よりそこにはインターネットによってもたらされた新しい情報の流れがありました。そういったものを経験した前と後では、デジタルゲームへの見方が変わりました。デジタルゲームは、次第にデジタルコンテンツの中で相対化され、先駆的な存在というよりは、人々の中で特殊なコンテンツという位置付けが為されました。
ほとんどのデジタルゲームは箱庭を作って、その中で遊びます。そういった閉じた世界は、現代のように、流れるデジタル情報の中で生きている人間から見ると、ますます特殊なものに思えてき、そこにいることが不安にさえ感じてしまいます。「現実は外で流れているのに、ここに閉じこもっていることは危険ではないのか」、という不安です。不特定多数のプレイヤーと同時にプレイできる オンラインゲームでさえ、そのコンテンツの意味はゲームの中で定義され固定されています。
だから、今、デジタルゲームはTwitter のようなシンプルに140字のメッセージだけを集めたコンテンツとも対等な戦い……ややもすると不利とさえ言える戦いを強いられています。
デジタル世界の中で、どこにもつながらない閉じた世界と、どこかにつながって行く世界、この二つが乖離する以上、デジタルゲームはかつてのようなデジタル時代の予行演習(=ゲーム)の意味を完全に失っているのです。
次の時代に待ち受けるデジタル空間
それが2000年からの10年で起こったことです。
しかし、最近、別の流れが起こりつつあります。デジタルコンテンツそのものが成熟するに従い、文字や画像や動画のやり取りを行うインフラ整備の次の段階として、インターフェースと表現(見かけ)を豊かなものにしようという動きが活発になっているのです。例えば、インターフェースはタッチパネルやゼスチャ認識となり、WEBやOSやツールの見かけもますますリッチなものに変化してきています。それらは全体としてますますゲームに近づいている のです。そういった流れの中で、デジタルゲームのスタイルや方法論が再発見されつつあります 。
今、デジタルゲームは直接的にせよ、間接的にせよ、そのスタイルと方法をデジタルコンテンツとその製作者全体に提供し続けています。与え続けたものの中からゆっくりとデジタルコンテンツのスタイルが変わってきています。デジタルコンテンツがデジタルゲームのようなコンテンツスタイルに変わりつつあるのです。
次の時代には、さまざまなデジタル空間がデジタルゲームと地続きの空間になるでしょう。そして、それはデジタルゲームにとっても一つの大きな革命となるでしょう。
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